豊洲市場

無味乾燥なゴミ

初音ミクは、楽器か? 歌姫か?

昨今、トヨタのアクアのCMに『千本桜』が起用されるなど、国内外問わず認知される事が多くなった初音ミクをはじめとしたVOCALOID

このボーカルシンセサイザーは、今や世界の音楽シーンにセンセーショナルな存在として、革新的なムーブメントを巻き起こしている。

 

その基軸をなしているのが、ボカロPと呼ばれる楽曲制作者と、ボカロ曲と呼ばれるオリジナル曲だ。ボカロPはプロアマ問わず、学生からインディーズミュージシャンまで様々。そうしたボカロPたちが、自身の持つ楽器とDAW、そしてVOCALOIDを駆使してオリジナル曲を作る。それがボカロ曲だ。

ボカロ曲は本当に多種多様で、ロックもあればポップスもある。ジャズや演歌だってある。ボカロ曲にジャンルはない。VOCALOIDが使われたオリジナル曲であれば、それらは全てボカロ曲になる。『千本桜』はその一曲にすぎないのだ。

リスナーはそれらの楽曲の中から自分の気にいるボカロPを見つける。ボカロ曲を見つける。そのボカロPのファンになると同時に、VOCALOIDのファンになる。

私は、ボカロ曲にジャンルはないと先述したが、ボカロ曲自体を1つのジャンルとして捉える考え方もある。ボカロ曲というジャンルそのものに、同じVOCALOIDリスナーとしてシンパシーを覚えるリスナーは多い。その中で、自分の推しているボカロPについてリスナー同士で話を深める事ができる。

畢竟、このムーブメントの中心にいるのはソフトウェアの初音ミクではない。ボカロPにしろ、リスナーにしろ、なのだ。いかに初音ミクが優れたソフトウェアであったとしても、人なしにはこのムーブメントは起こらなかっただろう。VOCALOIDの魅力を引き出しているのは、なのである。

 

では、人に扱われる立場の初音ミクは楽器なのか?

個人的見解だが、ここ数年(2014年ごろ)のボカロ曲をみるとその傾向が強い。特にリアルシーンで活躍するボカロPたちは、自身のバンド曲をVOCALOIDに歌わせたり、逆にボカロ曲をバンドでカバーすることが多い。

このような場合、初音ミクはボカロPがリスナーに楽曲を聴いてもらうための媒体であり、彼らの多くは楽曲やPV等において、自身の作であることをアピールする。この曲は初音ミクの曲ではない。初音ミクを使って作った自分の曲だ、と。この時、初音ミクはそのキャラクター性を完全に喪失し、ギターやドラムと同じ楽器になる。

ここまで見てくると、初音ミクは近年、楽器化される傾向にあると思える。しかしそれはあくまでボカロPがどう扱うかであって、もう一人の担い手であるリスナーがどう捉えているかはまた別の話である。楽曲制作に携わらないリスナーは、初音ミクの楽器的側面を見ているのだろうか? ましてやボカロリスナーではない一般層には、初音ミクが楽器だとは到底思えないだろう。

まさにその通りで、近年、楽器化とは別に初音ミクキャラクターを前面に押す動きも活発になってきた。特に企業や自治体とのコラボではそうした働きかけが目立つ。こうしたものが、リスナーや一般層に向けたものであることは明白である。彼らには初音ミクと言えば、楽器ではなくキャラクターがすぐに思い浮かぶはずだ。こうした働きかけの所為である。

 

ここまで初音ミクは楽器なのかキャラクターかなのか、と論じてきたが、私はこの二つが分離していくのはあってはならないと考える。VOCALOIDは確かにソフトウェアで楽器だが、それに属する初音ミクというキャラクターはただのイラストではない。初音ミクのあの拙くも可愛らしい歌声がなければ、初音ミクではないのだ。

楽器とキャラクター。どちらが欠けてもこの爆発的なヒットはおそらくなかった。今後、分離されていくのであれば、やがて忘れられていくのは明白だ。

今後、この二つを分離させるのか、調和を保つのかは人次第だと私は考える。初音ミクの魅力を引き出しているのは、人なのであるのだから

 

※ブログの練習で、学生時代に機関紙に寄稿した文章を載せています。