豊洲市場

無味乾燥なゴミ

服喪期間の死別ケアについて考える

 家族や親族が亡くなると、会社や学校から弔事休暇(忌引き)が与えられることが多いと思います。

 

 私も母が亡くなった時、会社から10日間の弔事休暇を付与されました。死後の手続きは亡くなった方が親しい人ほど大変なものですが、生前に準備していればさほど長い期間はかかりません。私の場合は葬儀も含めて4日ほどで終わり、残りの日数は時間が空いてしまいました。また弔慰金も支給されましたので経済的に困ることもありませんでした。

 

 現在の日本において、親しい人が亡くなった時の支援は、(親族であれば)経済的にも時間的にも手厚いものです。

 しかしお金と時間だけ与えられて、喪失者が死別とどう向き合うべきかという肝心な問題は全く示されていません。それは個人の責任なのか、宗教の役割なのか、あるいは精神医学のケア領域なのか、はっきりしていないのです。

 

 私の経験上、喪失に最も効く薬は時間です。しかし様々な理由でその時間が確保できない場合があります。例えば、会社の都合で弔事休暇を十分に与えられなかった場合や、受験など人生の重要な期間で喪に服していられなかった場合などです。

 また、あまり親しくなかった親戚との死別には弔事休暇があるにも関わらず、とても仲が良かった友人との死別では他人であるために弔事休暇が与えられず、辛い思いをしたこともあります。

 

 時間という薬が確保できないとき、私たちは即効性のある特効薬を見つけなければなりません。その特効薬となりうるのが、親しい人の死を受け入れる際の姿勢である「死別理解」です。

 死別理解とは亡くなった事実をどのように受け入れ、今後どのように生きていけばいいのか、私たちに示してくれる思想や信条のことを指します。

 

 例えば仏教徒では「死者の魂は輪廻を繰り返し生まれ変わり、どこかでまた生を受けている」というのが死別理解ですし、キリスト教徒では「死者の魂は天国の神とイエス・キリストのもとへ行く」という考え方が死別理解にあたります。

 

 しかし現在、多くの日本人にとって宗教はあくまでも形式的なものになってしまっており、中心的な死別理解とはなっていません。私の家庭も熱心な仏教徒ですが、葬儀や法事の際の法話だけでは死別による喪失感を埋めることはできませんでした。

 宗教や葬儀自体を否定するつもりではありませんが、私は宗教の死別理解はあらゆる人々の喪失による痛みを和らげる対症療法のようなものだと思っています。補助的な役割を果たし、メインで使うには少し心もとないのです。

 

 ではどのような死別理解こそが、より痛みに即効性をもたらすのでしょうか。宗教的な側面を持つものも含めて、一般的に言われている死別理解を挙げてみます。

 

  1. 死者は天国にいるので自分も死後に天国で再会できると信じて生きていく。
  2. 死者は墓に眠っているのでそこに向かって手を合わせる。
  3. 死者の魂は至る所にあるのでそれを感じながら生きる

 

などなど、喪失を経験した人の数だけ死別理解はあると思います。

 

 しかしながら、私はこれらの死別理解について、不確定な要素があるために即効性が損なわれていると考えます。

 不確定な要素とは「あるかもしれないし、ないかもしれない」ものです。前述の例でいえば、天国や魂、来世などがこれにあたります。これらは科学的には全く存在が証明されていないにも関わらず、都合よく人間社会の中で信仰されてきました。

 

 私は不確定な要素があると、その事実を100%信じることができません。真実ではなかった時に備えて、無意識に保険をかけてしまうのです。

 日常生活においてこの行動は自分を守るために役立つのですが、死別理解に関しては諸刃の剣です。不確定な要素があることで逆に不安を生み出し、かえって喪失の悲しみを長くしてしまうこともあります。地獄や幽霊の存在をどこかで信じてしまうのも、この不確定な要素からなのです。

 

 つまり不確定な要素を取り除いた死別理解こそが、即効性があり、かつこれからの時代の中心的な死別理解と言えます。天国や魂、来世が存在しないこと素直に受け入れて、死別と向きあう。この姿勢がまず大切になるのです。

 

 ではそれまで拠り所としていた不確定な要素の代わりとなるものは何でしょうか。私は「時間の不可逆性」と「死の必然性」への理解だと思います。

 

 時間の不可逆性については、例えばこんな人を思い浮かべてください。

昔は毎日会っていたのに、今ではどこで何をしているかもわからない、そしておそらくもう会うこともないだろうという人です。

学生時代のあまり仲良くなかった同級生とか、別れてしまった恋人など、かなりの数の顔が頭に浮かんでくるのではないでしょうか?

 

 かつてはあれほど自分に近かった人なのに、今では記憶の中だけに残る懐かしい人になってしまった。そう考えると何だか不思議な感覚が湧いてきます。時が流れている以上、自分を取り囲む人間関係は常に変化していき、それを避けることはできません。死別でも普通の別れでもそれは同じです。

 

 さらに言えば、誰もが人生の中で出会った人すべてと別れる時がきます。その一つ目はその人が死んだとき。そして二つ目は自分自身が死ぬときです。天寿を全うし、ひ孫までいる大家族に看取られて息をひきとったとしても、その瞬間に人生で出会ったすべての生きている人との別れが訪れます。自分が死ぬ以上、この別れは避けられないのです。

 これは死の持つ必然性の特徴です。誰もがいつか必ず死を迎えます。

 

 死が必然だと理解できれば、少なくとも愛する人を理不尽に奪われた怒りを抑えることはできます。そして死別を人生の区切りとしてとらえ、亡くなった方のいない人生の新しいスタートだと考える。これが私なりの死別理解です。

 

 もちろん、何歳でその人は亡くなったのか、どのようにして亡くなったのか。また自分の人生があとどれくらい残っているのかによっても感じ方は変わってくると思います。

 死を仕方のないことだと受け入れることと、悲しみを否定することは違います。死は悲劇には違いないのですから、悲しい時にはたくさん泣いてください。そして亡くなった方との思い出をたくさん思い出してください。

 

 悲しみのあとに前を向いて生きていくことができれば、時間という最大の薬が効果を発揮してくれるはずです。