豊洲市場

無味乾燥なゴミ

現代人は死への耐性がない?

突然ですが、あなたは日常生活で死を意識することがありますか?

親しい人や有名人が亡くなった時、事故や災害のニュースを目の当たりにした時、あるいはドラマや映画などで登場人物が悲劇の死を遂げた時など、振り返ってみると意外と多いのではないでしょうか。

 

では死について、家族や友人たちと話し合うことはどうでしょうか?

死とは何か。死後の遺産整理について。親しい人の喪失体験。死について一人で考えることはあっても、このような話題を日常会話の中ですることはあまりないと思います。死は私たちの身近にあるにも関わらず、タブー視されているのです。

 

近年になってこうした考え方が見直されはじめました。その代表的な運動が、見知らぬ人と街のカフェでコーヒーを飲みながら死について語り合うデスカフェです。

イギリス発祥のこの運動は今や日本でも東京や大阪などを中心に開かれ、最近話題となっています。死のタブーとは一転して、死について話し合い、いつ死んでもいいように心と身辺を準備しておくことが推奨されはじめているのです。

死について公に語ることができる環境ができたことは、より成熟度の高い社会を目指すにあたって素晴らしい進歩だと思います。

 

さて、いつから死はタブー視されるようになったのでしょうか?(ここでいうタブーとは死が良いものか悪いものかではなく、死の話題を出すこと自体が禁忌的な考えを指します)

 

近代以前の社会はいわゆる共同体社会で、大抵の人間はその土地で生まれてその土地で死んでいきました。家庭も祖父母を中心とした大家族で、親戚も同じ地域に住んでおり、多くの人々が親しい者の死を家の中で看取っていたのです。近代以前の家庭は死にとても近く、タブー視もされていませんでした。

 

しかし近代、人間の信仰が宗教から科学になったことによって、死に対するイメージも大きく変わります。医学の進歩によって死の多くは日常から切り離された病院や介護施設内で迎えられ、死にゆく過程も医師による治療を施しつくした先にある「終わり」へと変化したのです。

旧来、死は自然と訪れるものですが、科学や医療というバイアスがかかると、人間は死に抗いて生への執着を見せるようになります。こうして死は人々にとってタブー視されるものに変わっていきました。

 

さらに死に付随する緩和ケアや、死後の火葬場や墓地での遺体処理、親しい人の死別ケアまでもが公衆衛生や精神医学によって体系化され、社会システムに組み込まれました。

死と向き合うことは生きている者にとっても重要な節目となるはずですが、現代の死のシステムでは本人の死の瞬間まで死がタブーとされているため、家族内で死について語り合われることは少なくなりました。また死別ケアに関しても精神科のお世話になっており、喪失感を癒す役目も家庭から病院へと変わりました。

 

こうした近現代における死のシステム化と医療化はある一方では成果をあげました。

前史における共同体社会は宗教を基盤としたパラダイムのもとに成り立っており、信奉としての宗教が崩壊した現代において、科学に裏付けされた病気の治療と死のケアが宗教システムを代替として機能しているからです。緩和ケアや死別ケアは自然な死を受け入れ、自分自身の死や親しい者の死の苦しみをどう和らげていくかを示してくれています。

前史で神や宗教者(聖教者)が担っていた死への道程を示す役割が、現代では医療、看護従事者に置き換わりました。むしろ宗教崩壊という大きなパラダイムシフトがあったにも関わらず、死のシステムという新しい概念を構築できたことは素晴らしいことだと思います。

 

しかし一方で私たち自身が死について話し合う機会は減りました。死に関わる全ての問題を医療や心理学(あるいは宗教に)丸投げしているのです。

今の自分には関係のない事だと目をそらし続けていると、いざ自分や親しい人の死を迎えた時、心に負うダメージは計り知れないものになります。だからこそ普段から死と向き合い、話し合うことが大切なのです。