偉大な大国「中国」との付き合い方を考える
20年前の日本と中国
テレビでも有名な莫邦富MoBangfu先生の著書、『日本企業はなぜ中国企業に敗れるのか』(2002)を図書館でたまたま見かけた。
白物家電は全て中国メーカーを使用し、生鮮食品以外は何の抵抗もなく中国産を選ぶ私には、とても興味をそそられる内容だった。
『ジャパン・アズ・ナンバーワン』と言われたバブル期を知らない世代の私にとって、中国は限りない発展を続ける巨大な隣国であり、憧れの対象でもある。
はじめて中国にいき、上海浦東国際空港から上海トランスラピッドに乗ったときは、鉄道が好きなこともあって、興奮と感動で胸がいっぱいになった。
それから10年近くが経ち、サムスン電子に先駆けて「折り畳みスマホ」を開発したRoyole(柔宇科技)など、わくわくする最先端技術を生み出すのは中国かアメリカのメーカーになった。
かつては世界一位の技術を誇っていた日本のメーカーは、いつから中国に追い抜かれていったのか。本書にはそのヒントが隠されていた。
中国市場で敗北した日本家電メーカー
1990年代半ばから2000年ごろにかけて、日本の家電メーカーは中国市場で劣勢に立たされていた。それまで蚊帳の外にいた中国国内の家電メーカーが突如として躍進し、日本ははじめ海外メーカーのシェアを奪ったのである。
当時の日本の経営者たちは、日本企業が中国企業に敗れた原因を「安かろう悪かろう」の戦略に敗れただけだと高をくくっていた。
しかし実は日本企業の構造そのものに本質的な問題があった。それこそが日本企業の中にある、大きな傲慢と内部構造の闇である。
長い間、中国企業のサービスは最低とされてきた。露店の接客態度に関してもお釣りを投げて客に渡すほどだったという。だが1990年代中頃から中国のサービスの質は主に家電メーカーを上昇し、日本をはじめとした外国企業に匹敵するものにまで成長した。
一方で日本企業のサービスは頭撃ちどころか、低下しているようのさえ思える。
本社のオフィスに通されるとこれでもかと丁寧な扱いをうけるが、顧客に対するサービスの質は低く、まさに慇懃無礼といった態度である。
たらい回しにされる日本のカスタマーセンター
これはカスタマーサービスの開業時間からもうかがえる。
日本のサポートデスク(富士通)が平日の9時から17時、アメリカの(DELL)が平日9時から21時間なのに対し、中国のレノボは24時間対応するのだ。(日本法人は9時から18時)。
しかも土日も空いており、クレーム対応には最終的に社長が対応する。
日本のカスタマーセンターではよく「たらい回し」にされることが多い。スマートフォンのことについて問い合わせても、通信キャリア、販売代理店、製造したメーカー、アプリの開発元など責任が曖昧だ。
レノボのサービスは顧客を待たせることもたらい回しにすることもなく、社長が自社製品に責任を持つという点で好感が持てる。
日本では東海テレビの「不適切放送」の例のように、下請けの社員一人に全責任を押し付けて有耶無耶にしてしまうケースが目立つ。
IT社会を見通した中国の戦略
中国は2000年代ごろには次世代のIT産業に目を付けて、積極的に投資を行ってきた。
『中国電子報』に記されている主要な電子企業の一覧にも、すでに大手だったハイアール、レノボをはじめ、TCL、Huawei、ハイセンス、四川長虹、コンカなど日本でもお馴染みのメーカー名が並ぶ。
「BAT」と呼ばれる3社、百度、アリババ、テンセントの名前はまだない。
ハードウエアやソフトウエアの覇権争いの時期であり、ITを利用したサービスが成熟していなかったからである。しかし当時に日本企業を中国から追い出した家電メーカーたちが、今度は日本市場に攻勢をかけてきているのだから面白いものである。
徹底した実力主義の海爾
ハイアールの躍進の立役者は徹底した実力主義の社風だ。日本のように年功序列の賃金ではなく、自身が開発した製品の売り上げから報酬が受け取れるのである。
しかも新商品開発の依頼は上司から下されるのではなく、社員自らが考える。海外メーカーから市場とは考えられず切り捨てられた貧しい農村に自ら赴き、ニーズを探り当てるのである。一部の日本企業が儲からない農村を相手にしないのとは大きな違いだ。
さらにハイアールには驚くべきことに重役を含む幹部社員の評価制度がある。彼らに対しての一般社員の評価が社員食堂に張り出させている。(2000年ごろの話で現在もあるかはわからない)
上司が部下を評価することはあるが、部下が上司を評価するなんて日本ではまず考えられない。これが中国企業の経営者や管理職に対する厳しさであり、無責任な経営者を生み出さないシステムなのだ。
2021年、日本は中国製品で溢れている
莫先生の書籍が発売されてから20年あまりが立ち、日本と中国の経済的立場は完全に逆転した。
iPhoneは中国の工場で組み立てられ、『TikTok』や『原神』、『アズールレーン』などの中国産スマートフォンアプリは日本の若者に人気だ。
パソコンではレノボがNEC、富士通のパソコン事業を統合し、スマートフォンではOPPOやシャオミが日本で5Gの機種を販売している。
自動車産業においても第一汽車の『紅旗』が日本に上陸し、中国製の自動車を日本で見る日もそう遠くないだろう。
一方で米中貿易摩擦による制裁によって使い物にならない製品も出てきた。さらには新疆ウイグル自治区や内モンゴル自治区、香港、法輪功学習者への弾圧やジェノサイドなど、中国共産党が行っているとされる人権問題には世界中から非難が殺到している。
日本は中国という広大で偉大な大国に敬意を示しつつも、こうした問題に対して毅然とした態度で発言し、友好な関係を築きながら、中国製品やアメリカ製品に頼らない産業的な自立を目指すべきあると考える。
田中角栄の『列島改造論』から東京一極集中を考える
1. 田中角栄の国土建設ビジョン
田中角栄の生涯のテーマは「表日本と裏日本、都市と地方の格差是正」だった。このテーマには新潟県出身である角栄の、農村や漁村の犠牲のうえに都市が繫栄してはいけないという強い思いがある。
裏日本とは日本列島の日本海側のことを指し、寒冷地で豪雪地帯が多い。一方で太平洋側の表日本は、東京、大阪、名古屋の三大都市圏や太平洋ベルトなど日本の主要都市や工業地帯が集中している地域だ。
角栄はアメリカやドイツ、ソ連など多くの先進国が寒冷地の北部を工業化し、温暖な南部を農業化していることを挙げ、日本も表日本を農業地帯、裏日本を工業地帯にするべきと唱えた。
当時は裏日本から人口が都市部に流出し、地方では過疎化が、都市部では過密化が大きな問題となっていた。また食料自給率も極めて低く、農業従事者も減少していた。表日本で適地適作の農業を行い、裏日本に産業を移転させれば、こうした問題を一気に解決できると考えたのである。
2. 電力と道路計画
1950年、国土総合開発法が制定される。これは「産業立地の適正化」と「国土の均衡ある発展」を目指す法律だった。公共投資を行い、都市部の富を地方へ分配させる政策だ。そこでまず手を付けたのが電力と道路網の整備だった。
戦後の日本において、産業発展のためにエネルギーの確保が緊急の課題となっていた。しかし大規模な水力・火力発電施設の整備は軍需産業への転換の恐れがあるとして占領軍の反対にあう。角栄は反対する占領軍を押し切り、1952年に電気開発促進法を成立させた。
この法律によって政府が出資して設立した特殊法人によって次々にダムが建設され、足りない電力需要は賄われていった。同じころに9つの電力会社も生まれている。
公共事業を増やして雇用を確保し、地方を整備する考えはアメリカのニューディール政策の影響を強く受けている。ニューディール政策は1962年にアメリカのフランクリン・ルーズベルト大統領がおこなった政策で、特にテネシー川のダム開発事業が有名である。ダム開発は雇用や電力の確保だけでなく、治水も行うことができ、地域にとってはメリットしかない。このニューディール政策も政府が設立した公社組織による事業だった。
続けて角栄は1950年代に所謂「道路三法」を成立させ、交通網の整備を行った。もともと日本は鉄道大国で、馬車の利用もなかったことからほとんどの道路の整備が遅れていた。日本の大動脈だったはずの国道一号線すら未舗装だったのである。
角栄は出来たばかりの高速道路の有料化とガソリン税で財源を確保し、日本各地に横断道路・縦断道路を建設していった。これらの道路網は今日でも利用させている。
3. 日本列島改造論
1972年、『日本列島改造論』が自民党総裁選にむけて出版された。そして同年7月、角栄は晴れて総理になる。『改造論』では均衡のとれた国土建設によって、地方の過疎化と都市の過密化の同時解消を目指すために具体的な内容が示された。
まずは交通網の整備によって一日生活圏、一日経済圏の実現。次に工業や大学を都市部から地方へ移転し、25万人規模の中核都市を各地方に設けることによって職住近接を目指した。
一日生活圏の実現に関しては具体的な6つの目標が示された。一つ目は鉄道で、当時完成していた東海道・山陽新幹線に続いて日本を縦断する複数の新幹線が計画された。この計画に基づき現在では、東北・上越・北陸・九州・北海道の各新幹線が開通または延伸中、リニア中央新幹線が着工されている。しかし地方都市と地方都市を結ぶ奥羽新幹線や四国横断新幹線などは今のところ開業のめどはたっていない。
二つ目は日本の主な4島、北海道・本州・四国・九州を長大橋またはトンネルで結ぶというものだ。これは既に完成していた関門トンネルを合わせて、青函トンネル・本州四国連絡3ルートの開通によって達成された。
三つ目は国際空港の建設。これも今日では羽田、成田、関空、中部の4空港が開港している。四つ目の国際貿易港も川崎や横浜などの港が現在日本の貿易を担っている。
五つ目は全国交通計画の策定。そして六つ目が基幹通信体系の整備だった。現在、日本のほとんどの生活圏で快適に通信ができるのも、このとき計画された整備指針の影響が大きいだろう。(令和元年度のNTTdocomoの4G基地局の人口カバー率は98%)
4. 便利になったが縮まらない格差
ではこの6目標によって日本列島の一日生活圏化は実現されたのだろうか。確かに太平洋側の利便性は格段に向上した。JR東海のウェブサイトによると、1960年には東京・大阪間の所要時間は6時間30分もかかっていたが、現在は2時間22分ほどにまで縮まった。また4つの国際空港は三大都市圏にあり、国際貿易港も太平洋側に集中している。
しかし西日本側はどうだろうか。現在の大阪・米子間の所要時間はJRの在来線で3時間23分。これは東京・大阪間の所要時間よりはるかに長い。同じ中部圏でも西日本側の岐阜県高山市から中部国際空港に在来線で行く場合、4時間はかかる。どちらも東京・大阪間よりかなり短い距離だ。
さらに太平洋側・西日本側の各都市同士の移動時間差は顕著で、同じ130km圏内でも名古屋・掛川間が54分なのに対し、福井・東舞鶴間は3時間2分。東京・仙台間は最短で1時間31分に対し、新潟・秋田間が特急「いなほ」で3時間32分もかかる。新幹線の有無が所要時間の短縮に影響を及ぼすのは明らかだ。
結局、太平洋側では「一日生活圏」が実現したが、日本海側では実現しなかった。4つの国際空港がすべて太平洋側にあり、新幹線網は太平洋側の大都市の地方を結ぶように整備されていることからも明らかだ。
5. 繰り返される工場制限法の悪夢
続けて角栄がとりかかったのは首都圏から工場・大学を移転させることだった。工場制限法を制定し、制限区域内において工場・大学の新設、増設を禁止した。都市部を追われた工場・大学は郊外に散り、八王子、町田、厚木などへ移転する。しかし首都圏外へ移転した大学は少なく、2002年に工場制限法は廃止された。
現在、世界的なパンデミックに見舞われ、テレワークの推進で首都圏からの移住が注目される中、こうした動きと似た現象が見られている。都市部から近郊への移住が増加する一方で、地方への移住は一向に進まないのだ。過密度の高い都市部からは抜け出したいが、利便性が高い太平洋側から日本海側へ移り住みたいとは思わないである。
こうした原因は「一日生活圏」が中途半端に実現されたまま、日本が発展してきたことにあるのではないだろうか。
6.ふるさと創生と平成の大合併
角栄の目指した国土建設は1973年のオイルショックによって一度は暗転した。しかしバブル期に、本州四国連絡橋や東京湾アクアラインなど一度凍結された事業が再び着工されて注目を集めた。また竹下登首相によって「ふるさと創生事業」が開始され、全国の地方自治体に一律1億円、総額3200億円が交付された。
地方は交付金で文化会館などの公共施設(いわゆる箱モノ)を次々に建設したが、自治体負担分の建設費や毎年の施設維持費などで、地方自治体の借金は1兆2700億円までに膨らんだ。ふるさと創生事業は国が国土建設の青写真を示すことなく、地方に大金をバラまいた愚策としか言いようがない。
結果的に地方自治体の競争力は低下し、都市部への人口流出が加速した。ふるさと創生事業は2001年に廃止される。体力がなくなった地方自治体は急速に合併し、その数を減らしていった。これが平成の大合併である。
平成の大合併は大失敗に終わったが、自治体が合併を続けたのにはいくつかのメリットがあると考えられていたからだ。特に地域を集約化することができ、行財政の効率化、議員定数の削減まで行える自治体の合併は、赤字を抱える地方の特効薬となりうる政策だった。
しかし、ただでさえ都市部へ人口が流出し、高齢化が進む中、巨大化しただけの自治体は行政サービスが悪化し、住み辛くなった。過疎化が進んだ地域では若者が消失し、インフラの維持が困難になっている。日本が末端から崩壊を始めているのだ。
今後、日本が目指す姿は残念ながら田中角栄の描いた「国土の均衡ある発展」ではない。発展させる場所を選んで生活の拠点を作る「コンパクトシティ化」である。だが、いかにコンパクトシティ化を進めても、日本海側と太平洋側で利便性の格差が生じるのであれば、人口は太平洋側に集中するだろう。
コロナ禍で社会構造が大きく変化している今こそ、地方の人や企業が最大限に能力を発揮できるように国土計画を見直し、東京一極集中からの脱却を検討するべきだと強く思う。
参考文献
米田雅子(2003)『田中角栄と国土建設』
東京新聞(2020)『「平成の大合併」から10年 いま市町村は』
※各都市間の移動時間は乗り換え案内サービスの「ジョルダン」様を参考にさせていただきました。
大腸内視鏡検査を受けてきました!!
先日、人生初の大腸内視鏡検査を受けてきました。
怖い、痛い、恥ずかしいといったネガティブなイメージがある大腸内視鏡ですが、想像していたよりは随分と快適でした。
これから内視鏡検査を受けるという方や、受けようかと迷われている方に、少しでもご参考にしていただければと思います。
(※以下、汚い話もありますので食事中の方はご注意ください)
内視鏡検査のきっかけ
私が内視鏡検査を受けたきっかけは左下腹部の痛みでした。
特に空腹時にひどく痛み、左下腹部を押すと激痛が走ります。盲腸が再発したのかな、と最初は思いました。ちょうど一か月前に虫垂炎(盲腸)になってしまい、薬で治療をしたからです。
虫垂炎の薬物療法(いわゆる盲腸を薬で散らす)のメリットは何と言っても手術が必要ないことです。しかしデメリットとして再発のリスクが高いことが挙げられます。
すぐに病院へ行き、血液検査と触診を受けました。しかし検査の結果は陰性。痛みの位置からも虫垂炎ではないだろうという診断でした。
ではこの痛みは何なのか? おそらく大腸の一部が炎症をおこしている憩室炎だろうと言われたのですが、母が大腸がんで亡くなった旨をお話すると、一応ポリープがないかだけ見ておいたほうが良いかもね、と言われました。
調べてみると家族から遺伝した場合に限り20代でもポリープができ、がんに発展する場合があるそうです。(家族性大腸ポリポーシス)
この機会に自分の大腸の状態を見ておこう。それにせっかくだから内視鏡検査を経験しておこうと思い、検査を受けることを決めました。
検査の前日
前日は消化の良いものを食べ、寝る前に下剤を服用しました。この下剤はピコスルファートナトリウムといって、内用液を水で希釈して飲みます。薄いカルピスみたいな味で別に不味くはありません。
もともとお腹はゆるいほうなのですが、この下剤では特に変化が見られませんでした。
内視鏡検査当日
当日は朝食抜きで、病院へ行きます。受付を済ませると検査室に移動し、コップと透明なシャンプー詰め替え用みたいな袋に入った下剤を渡されました。
この下剤は昨日のものとは違い、モビプレップ(めちゃくちゃ言いにくい!)といいます。
これを9時から11ごろまでゆっくり飲んでくださいと言われました。
さて肝心のモビプレップなんですが、味はめちゃくちゃ飲みやすいです。梅味と説明されましたが、確かに梅だと思います。
といっても天然の梅ジュース味ではなく、よくある人工甘味料系のお味です。しかしこの下剤がクソマズだと聞いていたので、覚悟していた割には拍子抜けしました(笑)
そうして梅ジュースの飲み放題を1時間くらい続けていると、お腹が痛くなってトイレに行きたくなります。しかし、ここからが本当の戦いでした。
事前に看護師さんから説明があったのですが、便の色を見慣れた茶色から薄黄色い水状になるまでトイレに行き続けなければなりません。
水状の便になってから、薄黄色になるまでに25回くらいはトイレにいきました。いや、ほんとおしりが焼けそうでしたね。
あとこれは個人差があると思うのですが、私の場合はめちゃくちゃお腹が痛かったです。まあ人工的に下痢を引き起こしているのですから仕方ありません。
最後の方なんか、もう死にそうな目で下剤の説明欄を読んでいました。この下剤を開発した人はどうしてモビプレップなんて言いにくい名前をつけたんだろう……。なんか絶妙に微妙な響きですよね、モビプレップって。
んでそうこうしているうちにやっと便が黄色くなり、検査準備が完了。検査は午後からなので、それまで待機となりました。
いよいよ内視鏡検査へ
さて検査の時間となり、順番が呼ばれて検査室へ。
お尻から管を突っ込むなんて怖すぎだろ! とガチガチに緊張していましたが、先生も看護師さんも手際よく準備を進めていきます。
まずはお尻のとこだけ穴が空いたズボンに別室で着替え、左側を下にしてベッドに横になります。
続けて麻酔入りのゼリーをお尻の中に塗っていきます。これも個人差があるとは思うけど気持ち悪い。まあでも、わざわざお金を払ってそういうプレイをしている人もいるからなあ、と割り切りました(笑)
そしていよいよ内視鏡が腸内へ。少し痛みはありますが、全然耐えられるものでした。例えるなら、何となくお腹が痛いなあという時のあの感じです。盲腸の時の方がよっぽど痛かった。
ただこれも個人差があるのでなんとも言えません。腸の荒れ具合とか病気の進行によって変わってくるみたいです。
そうしているうちに内視鏡が小腸と大腸の間に到達。あとは戻りながらポリープがないか確認していきます。もうここまでくると痛みは全くありません。
先生と二人で確認しながら自分の腸を見たのですが、思っていたよりも綺麗で安心しました。事前にネットで良い例と悪い例を検索して、ポリープの切除も覚悟していたので、何もないピンク色の腸は驚きでした。
直腸までしっかりと確認して、20分くらいで検査は終了しました。
検査後
夕食は何でもOKと言われたのですが、うどんを食べたら気持ち悪くなってしまったので、バナナだけ食べて寝ました。翌朝には体調も元に戻り、いつも通りの朝食を食べられました。
余談ですが、翌日の昼くらいまで便が黄色だったのが面白かったです。(しばらくしたら普通に戻ってしまった)
検査自体は朝8時から15時くらいまでで、まあ長いと言えば長いのですが、いろいろなリスクを考えると受けておいて損はないと思います。
近年は男女ともに部位別がんの罹患率で大腸が上位を占め、しかも腸粘膜には痛覚がないため大腸がんの発見が遅れてしまうことが多いです。
今回検査を受けてみてわかったことは、内視鏡や下剤の味などの進化、さらに先生や看護師さんの高い技術によって、検査を受ける際の心理的・肉体的ハードルが随分と下がっていることです。
また女性には女性の先生がやってくれる場合もありますし、鎮痛剤を打って知らない間に終わらせることもできるみたいです。
科学の進歩はスゲーってなりますので、40歳以上の方や私みたいに家族を消化器系のがんで亡くされている方は、ぜひ受けてみることをおすすめします!
ここまで読んでいただき、ありがとうございました。
※この記事はあくまでも私の体験記なので、実際の検査とは異なる場合があります。
服喪期間の死別ケアについて考える
家族や親族が亡くなると、会社や学校から弔事休暇(忌引き)が与えられることが多いと思います。
私も母が亡くなった時、会社から10日間の弔事休暇を付与されました。死後の手続きは亡くなった方が親しい人ほど大変なものですが、生前に準備していればさほど長い期間はかかりません。私の場合は葬儀も含めて4日ほどで終わり、残りの日数は時間が空いてしまいました。また弔慰金も支給されましたので経済的に困ることもありませんでした。
現在の日本において、親しい人が亡くなった時の支援は、(親族であれば)経済的にも時間的にも手厚いものです。
しかしお金と時間だけ与えられて、喪失者が死別とどう向き合うべきかという肝心な問題は全く示されていません。それは個人の責任なのか、宗教の役割なのか、あるいは精神医学のケア領域なのか、はっきりしていないのです。
私の経験上、喪失に最も効く薬は時間です。しかし様々な理由でその時間が確保できない場合があります。例えば、会社の都合で弔事休暇を十分に与えられなかった場合や、受験など人生の重要な期間で喪に服していられなかった場合などです。
また、あまり親しくなかった親戚との死別には弔事休暇があるにも関わらず、とても仲が良かった友人との死別では他人であるために弔事休暇が与えられず、辛い思いをしたこともあります。
時間という薬が確保できないとき、私たちは即効性のある特効薬を見つけなければなりません。その特効薬となりうるのが、親しい人の死を受け入れる際の姿勢である「死別理解」です。
死別理解とは亡くなった事実をどのように受け入れ、今後どのように生きていけばいいのか、私たちに示してくれる思想や信条のことを指します。
例えば仏教徒では「死者の魂は輪廻を繰り返し生まれ変わり、どこかでまた生を受けている」というのが死別理解ですし、キリスト教徒では「死者の魂は天国の神とイエス・キリストのもとへ行く」という考え方が死別理解にあたります。
しかし現在、多くの日本人にとって宗教はあくまでも形式的なものになってしまっており、中心的な死別理解とはなっていません。私の家庭も熱心な仏教徒ですが、葬儀や法事の際の法話だけでは死別による喪失感を埋めることはできませんでした。
宗教や葬儀自体を否定するつもりではありませんが、私は宗教の死別理解はあらゆる人々の喪失による痛みを和らげる対症療法のようなものだと思っています。補助的な役割を果たし、メインで使うには少し心もとないのです。
ではどのような死別理解こそが、より痛みに即効性をもたらすのでしょうか。宗教的な側面を持つものも含めて、一般的に言われている死別理解を挙げてみます。
- 死者は天国にいるので自分も死後に天国で再会できると信じて生きていく。
- 死者は墓に眠っているのでそこに向かって手を合わせる。
- 死者の魂は至る所にあるのでそれを感じながら生きる
などなど、喪失を経験した人の数だけ死別理解はあると思います。
しかしながら、私はこれらの死別理解について、不確定な要素があるために即効性が損なわれていると考えます。
不確定な要素とは「あるかもしれないし、ないかもしれない」ものです。前述の例でいえば、天国や魂、来世などがこれにあたります。これらは科学的には全く存在が証明されていないにも関わらず、都合よく人間社会の中で信仰されてきました。
私は不確定な要素があると、その事実を100%信じることができません。真実ではなかった時に備えて、無意識に保険をかけてしまうのです。
日常生活においてこの行動は自分を守るために役立つのですが、死別理解に関しては諸刃の剣です。不確定な要素があることで逆に不安を生み出し、かえって喪失の悲しみを長くしてしまうこともあります。地獄や幽霊の存在をどこかで信じてしまうのも、この不確定な要素からなのです。
つまり不確定な要素を取り除いた死別理解こそが、即効性があり、かつこれからの時代の中心的な死別理解と言えます。天国や魂、来世が存在しないこと素直に受け入れて、死別と向きあう。この姿勢がまず大切になるのです。
ではそれまで拠り所としていた不確定な要素の代わりとなるものは何でしょうか。私は「時間の不可逆性」と「死の必然性」への理解だと思います。
時間の不可逆性については、例えばこんな人を思い浮かべてください。
昔は毎日会っていたのに、今ではどこで何をしているかもわからない、そしておそらくもう会うこともないだろうという人です。
学生時代のあまり仲良くなかった同級生とか、別れてしまった恋人など、かなりの数の顔が頭に浮かんでくるのではないでしょうか?
かつてはあれほど自分に近かった人なのに、今では記憶の中だけに残る懐かしい人になってしまった。そう考えると何だか不思議な感覚が湧いてきます。時が流れている以上、自分を取り囲む人間関係は常に変化していき、それを避けることはできません。死別でも普通の別れでもそれは同じです。
さらに言えば、誰もが人生の中で出会った人すべてと別れる時がきます。その一つ目はその人が死んだとき。そして二つ目は自分自身が死ぬときです。天寿を全うし、ひ孫までいる大家族に看取られて息をひきとったとしても、その瞬間に人生で出会ったすべての生きている人との別れが訪れます。自分が死ぬ以上、この別れは避けられないのです。
これは死の持つ必然性の特徴です。誰もがいつか必ず死を迎えます。
死が必然だと理解できれば、少なくとも愛する人を理不尽に奪われた怒りを抑えることはできます。そして死別を人生の区切りとしてとらえ、亡くなった方のいない人生の新しいスタートだと考える。これが私なりの死別理解です。
もちろん、何歳でその人は亡くなったのか、どのようにして亡くなったのか。また自分の人生があとどれくらい残っているのかによっても感じ方は変わってくると思います。
死を仕方のないことだと受け入れることと、悲しみを否定することは違います。死は悲劇には違いないのですから、悲しい時にはたくさん泣いてください。そして亡くなった方との思い出をたくさん思い出してください。
悲しみのあとに前を向いて生きていくことができれば、時間という最大の薬が効果を発揮してくれるはずです。
現代人は死への耐性がない?
突然ですが、あなたは日常生活で死を意識することがありますか?
親しい人や有名人が亡くなった時、事故や災害のニュースを目の当たりにした時、あるいはドラマや映画などで登場人物が悲劇の死を遂げた時など、振り返ってみると意外と多いのではないでしょうか。
では死について、家族や友人たちと話し合うことはどうでしょうか?
死とは何か。死後の遺産整理について。親しい人の喪失体験。死について一人で考えることはあっても、このような話題を日常会話の中ですることはあまりないと思います。死は私たちの身近にあるにも関わらず、タブー視されているのです。
近年になってこうした考え方が見直されはじめました。その代表的な運動が、見知らぬ人と街のカフェでコーヒーを飲みながら死について語り合うデスカフェです。
イギリス発祥のこの運動は今や日本でも東京や大阪などを中心に開かれ、最近話題となっています。死のタブーとは一転して、死について話し合い、いつ死んでもいいように心と身辺を準備しておくことが推奨されはじめているのです。
死について公に語ることができる環境ができたことは、より成熟度の高い社会を目指すにあたって素晴らしい進歩だと思います。
さて、いつから死はタブー視されるようになったのでしょうか?(ここでいうタブーとは死が良いものか悪いものかではなく、死の話題を出すこと自体が禁忌的な考えを指します)
近代以前の社会はいわゆる共同体社会で、大抵の人間はその土地で生まれてその土地で死んでいきました。家庭も祖父母を中心とした大家族で、親戚も同じ地域に住んでおり、多くの人々が親しい者の死を家の中で看取っていたのです。近代以前の家庭は死にとても近く、タブー視もされていませんでした。
しかし近代、人間の信仰が宗教から科学になったことによって、死に対するイメージも大きく変わります。医学の進歩によって死の多くは日常から切り離された病院や介護施設内で迎えられ、死にゆく過程も医師による治療を施しつくした先にある「終わり」へと変化したのです。
旧来、死は自然と訪れるものですが、科学や医療というバイアスがかかると、人間は死に抗いて生への執着を見せるようになります。こうして死は人々にとってタブー視されるものに変わっていきました。
さらに死に付随する緩和ケアや、死後の火葬場や墓地での遺体処理、親しい人の死別ケアまでもが公衆衛生や精神医学によって体系化され、社会システムに組み込まれました。
死と向き合うことは生きている者にとっても重要な節目となるはずですが、現代の死のシステムでは本人の死の瞬間まで死がタブーとされているため、家族内で死について語り合われることは少なくなりました。また死別ケアに関しても精神科のお世話になっており、喪失感を癒す役目も家庭から病院へと変わりました。
こうした近現代における死のシステム化と医療化はある一方では成果をあげました。
前史における共同体社会は宗教を基盤としたパラダイムのもとに成り立っており、信奉としての宗教が崩壊した現代において、科学に裏付けされた病気の治療と死のケアが宗教システムを代替として機能しているからです。緩和ケアや死別ケアは自然な死を受け入れ、自分自身の死や親しい者の死の苦しみをどう和らげていくかを示してくれています。
前史で神や宗教者(聖教者)が担っていた死への道程を示す役割が、現代では医療、看護従事者に置き換わりました。むしろ宗教崩壊という大きなパラダイムシフトがあったにも関わらず、死のシステムという新しい概念を構築できたことは素晴らしいことだと思います。
しかし一方で私たち自身が死について話し合う機会は減りました。死に関わる全ての問題を医療や心理学(あるいは宗教に)丸投げしているのです。
今の自分には関係のない事だと目をそらし続けていると、いざ自分や親しい人の死を迎えた時、心に負うダメージは計り知れないものになります。だからこそ普段から死と向き合い、話し合うことが大切なのです。
クイーンズランドのシーサーペントと真実を見抜く力
アメリカ大統領選での不正投票疑惑をはじめとして昨今、フェイクニュースやデマがネット上で大きな影響力を持つようになりました。
そうしたデマ情報と比例して、企業や著名人のSNSがちょっとしたことで炎上するようになり、昔と比べたら「不寛容」な社会になってきたと感じます。(もちろん炎上する側にはそれなりの理由があるのですが)
そうした嘘と不寛容な社会を生き抜くヒントが、日本でかつて密かにブームだったUMA(未確認生物)にあると考えています。
今回は私がUMAにハマっていた中で、衝撃を受けたある事件と、その事件から学んだ教訓についてお話しします。
UMAとの出会い
私がまだ子供の頃『藤岡弘、探検隊』というテレビ番組がありました。
故・川口浩(1987年没)さんの探検隊シリーズを引き継いだもので、藤岡隊長と探検隊のメンバーが世界各地の秘境に赴き、未確認生物(UMA)の捜索や未開部族との交流を行うという内容でした。
当番組は冒険エンターテインメント作品であり、いわゆる「やらせだと分かっていて楽しむ番組」ですが、
少年時代の純真無垢な私にはそれがわかるはずもなく、探検隊の活躍や捕獲まであと一歩と迫る未確認生物の姿に毎回、心を踊らされたものです。
2000年代、UMA界隈は冷めていた
やがてテレビ番組だけだは飽き足らず、図書館やネットで UMA 関連の資料を読み漁る ようになりました。
当時は有名なネッシー写真、いわゆる「外科医の写真」が捏造だと判明し、 世間の UMA・オカルト熱が冷めていた頃でした。
21世紀にもなって、世界のどこかに未知の巨大生物が生き残っていると信じている者は少なくなっていたのです。
当時の私もビッグフットやチュパカブラなどはさすがに半信半疑でしたが、唯一これは確実に実在するなと信じていたのが、海に棲む巨大水棲獣シーサーペントでした。
シーサーペン トはその名の通り 大海蛇 で、ネッシーのように特定の湖で目撃されるのではなく、世界各地の海洋で目撃されてるUMAでした。
実際、1990 年代になっても新種のメガマウスザメが発見されましたので、当時の私は海洋が人類にとって最後の秘境と思っていました。(今でもそうかもしれません......)
世界的にも有名だったシーサーペント写真
さて、そんなシーサーペントの目撃談の中で私が特に衝撃をうけたのが、オーストラリアのクイーンズランド沖で目撃されたものでした。
この怪物はフランス人のロベール・セレック氏によって報告されたもので、詳細な目撃談に加え、鮮明なカラー写真の撮影に成功していました。
巨大なオタマジャクシのような怪物が身体をくねらせて、透き通った南洋の浅瀬を泳ぐ写真は、UMAファンならずとも一度は目にしたことがあるかもしれません。(頑張って描いてみました!笑)
ともかく、なんとこの写真は当時、私が読んだ書籍には「この写真はトリック写真でないことが証明された」と書かれておりました。
これはシーサーペントの確固たる証拠に違いなく、私は世紀のスクープ写真だと感激したものです。
さらに学会や専門家たちが大いに沸きたち、本格的な調査に乗り出せば、未知の海洋生物が公になる日も近い、と思いました。
しかし川口隊長や藤岡隊長が UMAを捕獲してから続報がないのと同じように、このクイーンズランドのシーサーペントについても何の続報もないまま月日は過ぎていきました。
やがて私自身のUMA熱もすっかり冷めきったころ、父からプレゼントされたあるUMA 系の書籍で衝撃の真実を知ることになったのです!
あの写真の真実
その本にはクイーンズランドのシーサーペントが作り物であり、すべてロベール・セレック氏のでっちあげであったと記されていました。
なんとセレック氏は写真家でもなんでもなく、多額の借金をかかえた国際指名手配犯だったのです。
撮影者の素性が明らかになれば、この写真に対する見方も変わってきます。
しかも彼は「ウミヘビ関係の仕事で一儲けする」と周りに言いふらしていたらしいです。呆れますね。
しかし外科医の写真のように模型をただ撮ったというわけではありませんでした。
トリック写真ではなかった!
驚くことにセレック氏は実物大のシーサーペントの模型を用意し、海に浮かべて撮影したのです。
「トリック写真ではない」という鑑定結果が出たのは、合成写真でも模型を拡大したものでもないため、当然といえば当然の結果です。
私はおもちゃの潜水艦を使って撮影されたネッシー写真につられて、「トリック写真ではない=本物」と勝手に思い込んでいました。
まとめ
何だか狐につままれたような結末ですが、大人になった今、社会やネット上ではこのようなデマやフェイクニュースが大いにはびこっていると感じます。
正面から事実を鵜呑みにするのではなく、 無意識にかかったバイアスを排除した上で、多角的に検証し真実を見極める力が必要なのです。
探検隊シリーズという「いかにも」なものは無害ですが、クイーンズランドのシーサーペ ントのような隙が無い嘘は、信じてしまう人がいるゆえに悪質になり得ます。
受け取る側がしっかりとしたリテラシーを持つことが大切なのです。
それにしても、セレック氏の写真は良く出来ています。
偽物とわかっていてもなお、本当に素晴らしい構図だなあ(笑)
初音ミクは、楽器か? 歌姫か?
昨今、トヨタのアクアのCMに『千本桜』が起用されるなど、国内外問わず認知される事が多くなった初音ミクをはじめとしたVOCALOID。
このボーカルシンセサイザーは、今や世界の音楽シーンにセンセーショナルな存在として、革新的なムーブメントを巻き起こしている。
その基軸をなしているのが、ボカロPと呼ばれる楽曲制作者と、ボカロ曲と呼ばれるオリジナル曲だ。ボカロPはプロアマ問わず、学生からインディーズミュージシャンまで様々。そうしたボカロPたちが、自身の持つ楽器とDAW、そしてVOCALOIDを駆使してオリジナル曲を作る。それがボカロ曲だ。
ボカロ曲は本当に多種多様で、ロックもあればポップスもある。ジャズや演歌だってある。ボカロ曲にジャンルはない。VOCALOIDが使われたオリジナル曲であれば、それらは全てボカロ曲になる。『千本桜』はその一曲にすぎないのだ。
リスナーはそれらの楽曲の中から自分の気にいるボカロPを見つける。ボカロ曲を見つける。そのボカロPのファンになると同時に、VOCALOIDのファンになる。
私は、ボカロ曲にジャンルはないと先述したが、ボカロ曲自体を1つのジャンルとして捉える考え方もある。ボカロ曲というジャンルそのものに、同じVOCALOIDリスナーとしてシンパシーを覚えるリスナーは多い。その中で、自分の推しているボカロPについてリスナー同士で話を深める事ができる。
畢竟、このムーブメントの中心にいるのはソフトウェアの初音ミクではない。ボカロPにしろ、リスナーにしろ、人なのだ。いかに初音ミクが優れたソフトウェアであったとしても、人なしにはこのムーブメントは起こらなかっただろう。VOCALOIDの魅力を引き出しているのは、人なのである。
では、人に扱われる立場の初音ミクは楽器なのか?
個人的見解だが、ここ数年(2014年ごろ)のボカロ曲をみるとその傾向が強い。特にリアルシーンで活躍するボカロPたちは、自身のバンド曲をVOCALOIDに歌わせたり、逆にボカロ曲をバンドでカバーすることが多い。
このような場合、初音ミクはボカロPがリスナーに楽曲を聴いてもらうための媒体であり、彼らの多くは楽曲やPV等において、自身の作であることをアピールする。この曲は初音ミクの曲ではない。初音ミクを使って作った自分の曲だ、と。この時、初音ミクはそのキャラクター性を完全に喪失し、ギターやドラムと同じ楽器になる。
ここまで見てくると、初音ミクは近年、楽器化される傾向にあると思える。しかしそれはあくまでボカロPがどう扱うかであって、もう一人の担い手であるリスナーがどう捉えているかはまた別の話である。楽曲制作に携わらないリスナーは、初音ミクの楽器的側面を見ているのだろうか? ましてやボカロリスナーではない一般層には、初音ミクが楽器だとは到底思えないだろう。
まさにその通りで、近年、楽器化とは別に初音ミクのキャラクターを前面に押す動きも活発になってきた。特に企業や自治体とのコラボではそうした働きかけが目立つ。こうしたものが、リスナーや一般層に向けたものであることは明白である。彼らには初音ミクと言えば、楽器ではなくキャラクターがすぐに思い浮かぶはずだ。こうした働きかけの所為である。
ここまで初音ミクは楽器なのかキャラクターかなのか、と論じてきたが、私はこの二つが分離していくのはあってはならないと考える。VOCALOIDは確かにソフトウェアで楽器だが、それに属する初音ミクというキャラクターはただのイラストではない。初音ミクのあの拙くも可愛らしい歌声がなければ、初音ミクではないのだ。
楽器とキャラクター。どちらが欠けてもこの爆発的なヒットはおそらくなかった。今後、分離されていくのであれば、やがて忘れられていくのは明白だ。
今後、この二つを分離させるのか、調和を保つのかは人次第だと私は考える。初音ミクの魅力を引き出しているのは、人なのであるのだから。
※ブログの練習で、学生時代に機関紙に寄稿した文章を載せています。